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天皇陛下、その人間らしさ
2019年04月30日
平成の天皇はその象徴としての任を自ら終えられた。
平成の天皇へのBBCの見方、深くうなずく。
日本の民主主義、平和を全身全霊で守られた、
最後の右傾化の中で孤立無援の中で静かに立たれた。
平和の時代の思い出に、感謝をこめて転載

2011年には、さらに甚大な被害をもたらす地震が東北地方の沖合で発生した。マグニチュード9は、記録が残る中で、日本における4番目に大きな地震だった。この地震は巨大津波を引き起こし、東北沿岸の町々に壊滅的な被害を及ぼして、約1万6000人の命を奪った。

この2番目の災害の後、天皇陛下は過去の天皇がしなかったことをした。テレビカメラの前に座り、国民に向けて直接語りかけたのだ。

その2週間後、天皇・皇后両陛下は、東京から離れたスタジアムに設置された避難所を訪れた。

被災者たちは、床の上にわずかな所持品を積み重ねて生活していた。多くの人々は、福島第1原発の損壊によって出た放射線から避難していた。ほとんど全てを家の中に残したまま、いつ、果たして戻れるのかどうかさえわからずに、避難生活を送っていた。

天皇・皇后両陛下は床に膝をつけて家族を一組ずつ訪ね、静かに話しかけ、質問をし、いたわった。

東日本大震災の被災者と話す天皇・皇后両陛下
保守層にとってはショッキングな、天皇陛下の姿だった。天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫にあるべき振る舞いではなかった。しかし、それを上回る数の日本人が、天皇陛下の人間味あふれる感情表現に深く感動した。

「陛下には道徳的な権威がある」とテンプル大学東京校のジェフ・キングストン教授は話す。「陛下はその権威を自ら獲得した。最高慰問者(consoler in chief)だ。陛下は父親(昭和天皇)には決してできなかった方法で民衆と関係を築いている」。

父親の罪
天皇陛下は革命家には見えない。背は低く、控えめで語り口は柔和だ。発言と行動は戦後の憲法によって厳しく制限されている。イギリスのエリザベス女王と違い、陛下は日本の国家元首ではない。

その代わり、陛下の役割は「国民統合の象徴」とあいまいに定義されている。政治的な発言は認められていない。

こうした儀礼的で窮屈な役割の中でも、陛下は見事な成果を上げてきた。

まず思い出すべきは、陛下は日本がアジアで暴挙を繰り広げた1930-40年代の約15年間に日本を治めた、神格化された昭和天皇の息子だということだ。広島と長崎に原爆が投下され終戦を迎えた時、陛下は12歳だった。


教育を受けていた時期のどこかで、陛下は強固な平和主義者となり、それは現在も続いている。このことについては、アメリカ人家庭教師のエリザベス・グレイ・ヴァイニング氏の影響を指摘する人もいる。天皇陛下は昨年12月には「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べた。平成の間に1人の自衛隊員も、戦争や武力紛争で犠牲にならなかったことに、何より満足しているという。

陛下は日本のかつての敵や被害者とも心を通わせる努力をしてきた。北京、ジャカルタ、マニラからサイパンまで、昭和天皇の下で生じた傷を癒すために尽力した。

「陛下は、日本の和解のための最高の特使という、天皇の新たな役割をつくり出し、地域内を何度も訪問し、償いと悔恨の意を示してきた。基本的に、過去の戦争の傷を癒そうとしてきた」とキングストン教授は指摘する。


天皇陛下と皇后陛下は1959年にご成婚された
1990年代には、それはあまり議論にはならなかった。国内の政治家は陛下を支え、1992年には歴史的な中国訪問を実現させた。だが、陛下が年齢を重ねるにつれ、日本の政治は急激に右傾化した。

かつての「謝罪外交」は、平和主義とともに支持されなくなった。安倍晋三首相は、日本の平和憲法を改めると宣言している。安倍氏や右派の人々は愛国的な教育を復活させ、彼らの言う戦後の「自虐史観」を消し去りたいと考えている。

天皇・皇后両陛下が見守る中、戦没者追悼の式典の壇上に立つ安倍晋三首相(2014年)
目立たないように、しかし強い意志をもって、陛下は繰り返し歴史修正主義者たちに対する軽蔑心を表してきた。2015年、戦後70年の節目で、安倍氏は談話を発表した。

「安倍氏は基本的に、日本がいま享受している平和と繁栄は、300万人の戦死者のおかげだと述べた」とキングストン教授は言う。

「翌日、陛下はそれを否定した。陛下は日本がいま享受している繁栄は、国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識によるものだと、お言葉で述べた」
テレビ中継を見ていた何百万人もの日本人にとって、それは疑いようのない批判だった。

2019.05.12 Sun l 天皇制・平和・憲法 l コメント (0) トラックバック (0) l top
天皇の旅:3 満蒙開拓、向き合う決意
朝日新聞 2019年05月09日
満蒙開拓憲法を守りの平成から
憲法に則りの令和へ
ああ、天皇が全身全霊で平和、民主主義を守ってこられた
有権者の能天気で忘れ去ろうとしているなかで・・・
その時代は終わった、もう助けてくれないと、当たり前のことに思いいたりました。
天皇という立場を離れても、類まれな叡智で象徴を模索し実践されて方は、任を離れられた。

日本の歴史に中の満蒙開拓、岸信介氏が中心になって推し進め、新天地を求めて多くの家族、若者が満州を目指した。
天皇の旅を転載
 2016年11月、長野県阿智村の「満蒙開拓平和記念館」に天皇、皇后両陛下(今の上皇ご夫妻)が「私的旅行」で訪れた。

 満蒙開拓民は戦前や戦中に旧満州(現中国東北部)に移り住み、敗戦後に日本に引き揚げた。寺沢秀文副館長(65)=現在は館長=は13年4月の開館後間もないころ、両陛下が関心を持っているらしいと聞いた。16年7月ごろ、県を通じ訪問の打診を受けたときは驚きつつも納得した。

 満蒙開拓は国策で進められ、開拓団の多くは、現地の中国人農民から半ば強制的に取り上げた土地に入植した。敗戦時は軍の大部分が先に南下。開拓民は国境地帯に置き去りにされて旧ソ連軍の進攻にさらされ、集団自決や中国残留孤児などの悲劇も生まれた。

 寺沢さんの両親は元開拓民だ。父は戦後、シベリア抑留を経て帰国。日本で再入植した。寺沢さんは父からこう聞いた。「開墾しようと満州に着いたら、すでに家も畑もあり、元々は中国の人のものだと知った。戦後、日本で本当の開墾の苦労をする中で、自分たちの大切な農地や家を日本人に奪われた中国農民の悔しさがわかった。あれは日本の間違いだった」
2019.05.10 Fri l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top