(プロメテウスの罠)医師、前線へ:より
長崎大教授の山下俊一(61)が福島入りした経緯

 2011年3月14日朝、県立医大内で放射線の危険性を話せる人物の人選を始めた。職員の放射能への恐怖心が強かったためだ。

 乳腺・内分泌・甲状腺外科教授の鈴木真一に意見を求めると、鈴木は山下を推した。ほかの医師も山下の名をあげたため、決めた。
 「福島に来て、みんなに正しい科学的知識を提示してくれないか」
福島県知事の依頼を受けた上で長崎大は正式に山下を派遣した。

 大阪空港経由で山下が福島に入ったのは18日午後。午後6時からの県立医大の職員向け講演会に登壇した。同僚教授の松田尚樹(56)、高村昇(たかむらのぼる)(45)も一緒だった。
 大会議室で行われたこの講演会には300人の職員が集まった。
 山下氏の話の要点は安定ヨウ素剤が必要か否か。山下はチェルノブイリ事故も例に出し、不要論を展開した。

 (1)安定ヨウ素剤で甲状腺がんが防げるという誤解が広がっているが、「ヨウ素剤信仰」にすぎない。日本人が放射性ヨウ素を取り込む率は15~25%。4、5割を取り込むベラルーシとはわけがちがう。

 (2)20キロ圏、30キロ圏以西の被曝(ひばく)量はおそらく1ミリシーベルト以下。チェルノブイリと比べて被曝量が微量なので、日本政府も安定ヨウ素剤服用の指示を出さない。

 (3)服用マニュアルは数々の欠点がある。使われないことを祈る。

 最後、こう職員を鼓舞した。

 「ぜひ逃げ出すことのないように。事故による被曝は地震国で原発立国を進めてきた日本の宿命です」

 講演は約1時間。山下は終始、自信に満ちた表情だった。

 だが、話がすんなり受け入れられたわけではない。講演会後、長崎大助教の熊谷敦史(40)は「上層部が院内を鎮めるために話をさせた」と怒る医師の姿を見た。

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:21 まさかの広範囲汚染
2013年11月8日
 2011年3月18日に山下俊一(61)が安定ヨウ素剤不要論を展開した後も、熊谷敦史(40)はヨウ素剤にこだわり続けた。長崎大の教授と助教という関係だが、熊谷には熊谷の考えがあった。

 原発はまだまだ不安定だ。急に飲ませる必要が出るかもしれない。そのときのために、どう渡し、どう飲ませるかを早急に決め、住民に徹底しておかねばならない――。

 19日午前。熊谷は福島県立医大で薬剤部長の白坂正良(60)、長崎大から福島入りした大津留晶(56)、吉田浩二(30)と話し合う。

 討議の結果、骨格を固めていた最寄り薬局利用案を踏襲することにした。(1)最寄りの薬局で安定ヨウ素剤を渡す(2)大人には錠剤、乳幼児には粉末を分包にして渡す(3)苦いので、乳幼児にはジュースに溶かして飲んでもらう。

 山下の了解が出れば、この案を県に提案する予定だった。県は十分な在庫を持っており、県には服用を指示する権限もある。このときがヨウ素剤が行き渡るチャンスだった。

 しかし同日、山下はこの案を却下した。理由は以下の通り。

 (1)原子力安全委員会のマニュアルから逸脱する(2)服用量を誤る危険もあるし、副作用が出た際に対応が困難(3)飲み物と混ぜた場合に効き目があるかどうかわからない――。

 日本甲状腺学会理事長をつとめる山下の意見は絶対だった。3月12日以降、医大で話し合われてきた配布案はこれで尻すぼみとなった。

 ところが……。

 数日後、山下は想像を超えた事実に驚いたと明かす。以下、ことし6月に山下から取材した内容だ。

 山下を驚かせたのは、11年3月23日に国が公開したSPEEDI(放射能拡散予測システム)の計算図だった。当時のヨウ素剤服用基準は、甲状腺の被曝(ひばく)線量が100ミリシーベルトになると予測されたとき。計算図では100ミリを超える地域が原発30キロ圏外にも大きく広がっていた。

 「ありゃー、と思いました」

 放射能汚染は山下の予想を大きく上回っていた。

 「日本の原発にはヨウ素とかを取り除くフィルターとかがきちんと付いているものだと思っていた。まさかこんなに広範囲に汚染されているとは思わなかった」

 山下には面会と電話で3回話を聞いた。一問一答の形で山下の記憶をたぐってみる。(麻田真衣)

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:22 聞く度に話変わった
2013年11月9日
 長崎大教授の山下俊一(61)は、1999年に起きたJCO臨界事故のあと原子力安全委員会で安定ヨウ素剤服用のマニュアルづくりを担った人物だ。

 その山下が、なぜ安定ヨウ素剤に否定的なのか。

 山下への取材は計3回。記憶があいまいなのか、話を聞くたびに内容が違っていた。

 今年6月のやりとり。

 ――福島県立医大でヨウ素剤服用は不要だと結論を出しました。

 「福島に入ったときは情報がなかったんです。情報といえば福島県立医大で測定していた空間線量のデータぐらいで……。3月23日にスピーディの結果を見て、ありゃーと」

 ――情報がないのになぜ不要と結論を出したのですか。

 「日本の原発はフィルターがついていると思っていた。放射性物質があんなに広範囲に広がっていると思わなかった」

 6月のこのとき、2011年3月18日に県立医大で行った講演の内容はよく分かっていなかった。当初、県立医大が「記録は存在しない」としていたからだ。7月に講演会の録画を入手し、改めて尋ねた。

 ――講演では「安定ヨウ素剤は信仰だ」とまで話しています。

 「チェルノブイリの場合は、その後に放射性物質を含んだ食品を大量に摂取した。つまり内部被曝(ひばく)の影響が大きい。日本は大丈夫だという意味です。それに原発から60キロ離れた県立医大では分けて考えていた。県立医大は空間線量が低くなっていたのでヨウ素剤を飲む必要がない」

 ――県立医大の職員が飲む必要がないという意味にはとれません。普通に聞けば、住民に飲ます必要はないと受け取ってしまいます。

 「言葉足らずで申し訳ない。でも実は当初、避難した住民は国の指示が出てヨウ素剤を飲んでいたと思っていた。マニュアルでは避難中に飲むことになっていましたから」

 ――服用させるべきかどうか、国から相談はなかったのですか?

 「なかったですね」

 ――相談があったら服用させるべきだと答えましたか?

 「そうですよ。避難するほどの事態であれば服用する。そのためのマニュアルですから」

 ――原発の状態は不安定でした。福島入り後、有事に備えて服用できる態勢を作ろうとは?

 「情報もなかったし、全く議論しませんでした」(麻田真衣)

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:23 消えたファクス
2013年11月10日
 長崎大の山下俊一(61)とともに安定ヨウ素剤の服用問題に大きな影響を与えたのが放射線医学総合研究所(放医研)の緊急被ばく医療研究センター長、明石真言(60)だ。

 明石から話を聞いたのはことし6月だった。明石はこういった。

 「いま思えば、飲ませればよかった」

 2011年3月14日、放医研は原子力安全委員会の定めた服用法から逸脱しないよう声明文を出した。国や県の指示がない状態で飲むな、ということだ。国、県は指示を出さなかったため、安定ヨウ素剤を飲んだのは三春町民などごく一部だけ。その三春町にしても、一時は「勝手に飲ませた」と批判された。

 その声明文について聞いた際の答えが「いま思えば」だった。

 「でも」と明石は釈明した。

 「あのころは自衛隊へのヨウ素剤服用指示や、傷病者の受け入れなど対応すべきことが多くて……」

 山下と明石。鍵を握る人物が、2人とも「飲ませるべきだった」と振り返る。

 なぜ服用に至らなかったのか。

 服用の判断を任された原子力安全委員会は、実は3月13日午前0時42分と午前10時半、経済産業省へこんなファクスを送っている。

 「体表面の汚染1万カウント以上でヨウ素剤を投与すべきだ」

 ところがなぜか、そのファクスが行方不明になったとされる。

 15日深夜には福島県庁に退いた国の現地対策本部にファクスが届く。内容は「20キロ圏内には入院患者等がいるのでヨウ素剤を服用させるように」。現地対策本部の医療班員だった放医研医師、立崎英夫(54)の記憶では送信元は経産省だった。

 立崎は驚いた。急いで、県にヨウ素剤服用を指示する文書をつくり始めた。服用の対象は「入院患者」から「住民」に広げた。

 16日朝。現地対策本部長から許可をとり、立崎は本部内にいた県職員に指示文書を手渡した。これで指示は行き渡ったと考えていた。

 だが、県はヨウ素剤を配布しなかった。理由は不鮮明なままだ。

 17日昼に立崎はいったん放医研に戻り、放医研に戻っていた医師の富永隆子(36)と交代した。

 18日か19日、富永は事前にヨウ素剤を配ることを県職員に提案した。職員は「それでいきましょう。必要分を市町村に段ボールで送ります」と手配を始めた。しかしなぜか、これも実現しなかった。

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:16 被爆の母、同じ不安
2013年11月3日

 2011年の3月16日から19日まで、熊谷敦史(40)は福島県立医大に泊まり込んだ。

 連夜、熊谷は被曝(ひばく)医療を行うことになった医師の不安を聞いた。

 「これで自分の命を縮めたら息子たちに申し訳ない」

 「なんで俺たちだけが……」

 彼らの本音だった。熊谷は除染棟の一室に座り、午前3時までつきあうこともあった。

 汚染度の高い被曝患者を治療しても、それ自体で医療者が被曝する線量はきわめて低い。だが、熊谷は彼らの不安をよく理解できた。

 福岡県で生まれた熊谷は、被爆2世だ。母は戦時中、広島にいた。原爆が落とされたあと、小学生だった母は救護所となった学校で被爆傷病者の救護をしていた。

 母は被爆を意識し、少し体調が悪いと「がんになったのではないか」とおびえていた。

 熊谷は、救護をしただけの母の被曝量は少ないと考えている。が、放射能への恐怖は理屈で割り切れるものではないと感じた。

 高校生のとき、医師の日野原重明(102)が書いた「死をどう生きたか」を読んだ。死を間際にした患者を前に、ともに悩みながら治療にあたる医師の姿に感銘を受けた。医師であれば「真(まこと)の道」が貫ける、熊谷はそう考えた。

 母の不安を見ていたので、放射線の健康への影響を研究したいと考えた。進学先を原爆後障害医療研究施設がある長崎大医学部に決めた。

 高校時代の成績は悪かった。三者面談で医師になりたいと告げると、担任はいった。「君が医者になったら何人殺すかわからん」

 現役時代は不合格。浪人し、猛勉強した。長崎大医学部の2度目の合否発表を、自宅のラジオで聞いた。合格がわかると、涙が出た。

 大学4年のとき、教授の山下俊一(61)と出会う。チェルノブイリで健康調査を始めていた山下のもとで研修する機会を得た。被ばく医療への意志はさらに強くなった。

 卒業し、外科医として5年間の経験を積むと、迷わず原爆後障害医療研究施設へ入った。難治性の甲状腺がん治療のかたわら、韓国やブラジルの在外被爆者治療に携わった。被爆の恐怖と戦う多くの人を見た。

 熊谷は泣き崩れる県立医大の医師たちにいった。

 「福島はみなさんの古里でしょう。これからも支援しますから、一緒に頑張りましょう」


(プロメテウスの罠)医師、前線へ:17 搬送はTVで知った
2013年11月4日
 2011年3月19日。長崎大の助教、熊谷敦史(40)は、いったん福島から長崎に帰った。

 所用をすませて福島県立医大へすぐ戻るつもりだった。

 教授の山下俊一(61)は前日午後に福島入りしていた。山下は「現地のことは現地がやればいい」と長崎に残ることを勧めたが、熊谷は医師たちの不安を聞いている。山下のようには割り切れなかった。

 加えて熊谷には心配があった。大量被曝(ひばく)者を受け入れる県立医大の除染棟に、きちんと情報が入ってくるのだろうか。

 心配は当たっていた。

 熊谷が戻る前日の24日。県立医大の除染棟に、3号機のタービン建屋で汚染水に足がつかった2人の作業員が運ばれてきた。しかし搬送の連絡はなかった。2人が運ばれてくることを医師たちが知ったのは、NHKのテレビだった。

 25日に戻ったあと、熊谷は医師たちからこう聞いた。テレビを見て職員が騒然となった。数時間して本当に患者がやってきた――。

 熊谷は東京電力との連絡簿を作った。東電がA4用紙に日中と夜間の作業員の数、作業内容を書き、県庁に置かれた国の現地対策本部にファクス送信する。それが県立医大除染棟に転送される、という仕組みだ。これでようやく、ある程度の情報が把握できるようになった。

 解決できないのは人手だった。県立医大病院から除染棟に、応援の医師や看護師がなかなかこない。

 救急科部長の田勢長一郎(63)は、メールの連絡網を使って全国各地の救急医に応援を呼びかけた。だが、すぐに駆けつけたのは和歌山県立医大だけだった。

 追い打ちをかけられる出来事もあった。5月の医学部入学式が近づくと、県立医大の上層部から除染棟で指揮を執る救急医の長谷川有史(45)にこんなお達しがきた。

 「ここは教育機関です。医学部の施設を使わないでください」

 大量被曝者が出た際に使う予定だった体育館や弓道場を「使うな」というのだ。長谷川は、想定していた手順を書き換えた。

 入学辞退者が出る中、医大上層部は平時を強調しようとしていた。一方、現場は最悪に備えなくてはならない。温度差は大きかった。

 大量の被曝者を受け入れる態勢は7月まで続けた。その態勢は、自衛隊や県外の病院の支えで成り立っていた。

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:18 薬局で提供「いける」
2013年11月5日
 チェルノブイリ原発の事故後、放射線による影響として明確になったのは甲状腺がんだ。予防のために飲むのが安定ヨウ素剤であり、それをいつ服用させるかが住民の命にもかかわる問題となっている。

 今回の原発事故では、わずかな例外を除いて住民にヨウ素剤を服用させた機関はなかった。しかし水面下では飲ませるべきではないか、という動きは少なからずあった。

 福島県立医大でも、実は早い時期から論議を続けていた。

 論議の舞台は、県立医大が独自につくった災害対策本部だった。

 2011年3月12日、福島第一原発の入り口で放射線量が上昇する。災害対策本部が置かれていた病院長室は、これでざわついた。

 副病院長で小児科部長の細矢光亮(ほそやみつあき)(54)は、住民がすぐにヨウ素剤を服用できる態勢を整えなければならないと考えた。病院職員ですら放射能の恐怖におびえていた。住民の不安はなおさらだろうと思った。

 最初、細矢たちは最寄りの薬局で住民に飲んでもらう案を考えた。この方法なら、県民誰もが服用できると考えたからだ。

 案が決まると、薬剤部長の白坂正良(しらさかまさよし)(60)が動いた。

 3月13日。白坂は福島県薬剤師会長の桜井英夫(さくらいひでお)(73)に協力を依頼する。桜井はすぐに承知した。安定ヨウ素剤を使って新生児、幼児用のシロップをつくる方法を書いた紙を、福島市内にある薬剤師会事務局から県内850の薬局に向けて一斉にファクス送信した。

 白坂は県に問い合わせし、ヨウ素剤の在庫が錠剤24万錠、粉末も6キロあることを把握した。追加で50万錠入荷することも知った。

 細矢は「いける」と思った。

 特に服用が必要だと考えていた原発周辺から避難した子どもの数も、小児科の医局がつかんでいた。

 住民への指示は、テレビを使うことにした。画面に流れるテロップ、つまり字幕で告知する。

 準備さなかの14日、放射線医学総合研究所が見解を出した。(1)ヨウ素剤を含むうがい液などの服用禁止(2)ヨウ素剤は指定された場所で指示があった場合のみ服用すること。

 勝手に動くな、飲ませるなという意味だ。

 細矢は動じなかった。服用が必要と判断したらこのお達しを無視しようと心に決めた。甲状腺がんの危険性を考えれば副作用は許されるだろう、そう思っていた。

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:19 服用の指示が出ない
2013年11月6日 住民に安定ヨウ素剤を配布しようとする一方、福島県立医大では職員へのヨウ素剤配布を進めた。

 原発事故後、県立医大では放射能への恐怖が渦巻いた。若い女性職員の不安は大きかったし、子どもを連れて避難したいという声も出た。

 「医大内の混乱を鎮めるために配布は必要だった」と医大病院の副院長、細矢光亮(54)は話す。

 配布の優先順位は(1)被曝(ひばく)医療と院内の放射線測定にあたる40歳以下の職員(2)外来で働く40歳以下の職員(3)40歳以下の女性職員。

 事故翌日の3月12日、在庫の千錠から(1)への配布を始めた。

 製薬卸会社から錠剤を調達し、配る先を増やしていった。15日昼までの配布数は4507錠。

 15日に県から4千錠、16日には卸会社からさらに2千錠を調達した。16日以降は大学の教員や事務部門の職員にも配布した。

 いつ服用するかは各職場の判断に任された。薬剤部長の白坂正良(60)の記憶では、多くの職員が配られてすぐに飲んでいた。

 15日夜、文部科学省の緊急被ばく医療調整本部から広島大教授の細井義夫(54)がきた。大講堂に立った細井は、職員を前にこう話した。

 「4号機が今にも大爆発するかもしれない」「200キロ圏が避難地域になる可能性がある」

 細井の話を受け、16日には職員の子どもにも配ることが決まった。対象は15歳以下とされた。

 各部で職員の子どもの数をまとめ、必要分を病院経営課で渡すことにした。17日には看護部に358人分が配された。19日から21日にはそのほかの部署の子ども用に814人分を配った。

 子どもの服用基準は「爆発時」または「毎時100マイクロシーベルト以上」とした。

 配布の事実は外に漏らさないように、と口止めがされた。

 細矢は、ヨウ素剤を配布したことで目に見えて院内が落ち着いたように感じた。半面、住民に服用させる話は進まなかった。国や県からヨウ素剤服用の指示が出ないのだ。

 13~16日のある日、県庁に派遣していた県立医大の医師に細矢はこう頼む。「薬局でのヨウ素剤服用を住民に呼びかける字幕をテレビで流したい。県に許可をもらってほしい」。が、県の許可は出ない。

 結局、18日に福島入りする長崎大教授の山下俊一(61)に判断をまかせることにした。(麻田真衣)

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:20 「ヨウ素剤信仰だ」
2013年11月7日
 福島県立医大の学長兼理事長、菊地臣一(きくちしんいち)(66)は、長崎大教授の山下俊一(61)が福島入りした経緯をこう記憶している。

 2011年3月14日朝、県立医大内で放射線の危険性を話せる人物の人選を始めた。職員の放射能への恐怖心が強かったためだ。

 乳腺・内分泌・甲状腺外科教授の鈴木真一(すずきしんいち)(57)に意見を求めると、鈴木は「わかりやすく、科学的に話ができるのは山下先生だけだ」と山下を推した。ほかの医師も山下の名をあげたため、決めた。

 17日。菊地は面識のある長崎大学長の片峰茂(かたみねしげる)(63)に電話をし、山下の携帯番号を聞いた。菊地は山下の携帯に電話し、こう依頼した。

 「福島に来て、みんなに正しい科学的知識を提示してくれないか」

 長崎大は山下派遣を内々で決定。福島県側に知事名の要請書を求め、福島県庁からファクスで送ってもらう。福島県知事の依頼を受けた上で長崎大は正式に山下を派遣した。

 大阪空港経由で山下が福島に入ったのは18日午後。午後6時からの県立医大の職員向け講演会に登壇した。同僚教授の松田尚樹(56)、高村昇(たかむらのぼる)(45)も一緒だった。

 大会議室で行われたこの講演会には300人の職員が集まった。多くの職員が放射能対策のマスクをつけたまま、話に耳を傾けた。

 山下は最後にマイクを握った。

 話の要点は安定ヨウ素剤が必要か否か。山下はチェルノブイリ事故も例に出し、不要論を展開した。

 (1)安定ヨウ素剤で甲状腺がんが防げるという誤解が広がっているが、「ヨウ素剤信仰」にすぎない。日本人が放射性ヨウ素を取り込む率は15~25%。4、5割を取り込むベラルーシとはわけがちがう。

 (2)20キロ圏、30キロ圏以西の被曝(ひばく)量はおそらく1ミリシーベルト以下。チェルノブイリと比べて被曝量が微量なので、日本政府も安定ヨウ素剤服用の指示を出さない。

 (3)服用マニュアルは数々の欠点がある。使われないことを祈る。

 最後、こう職員を鼓舞した。

 「ぜひ逃げ出すことのないように。事故による被曝は地震国で原発立国を進めてきた日本の宿命です」

 講演は約1時間。山下は終始、自信に満ちた表情だった。

 だが、話がすんなり受け入れられたわけではない。講演会後、長崎大助教の熊谷敦史(40)は「上層部が院内を鎮めるために話をさせた」と怒る医師の姿を見た。

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:21 まさかの広範囲汚染
2013年11月8日
 2011年3月18日に山下俊一(61)が安定ヨウ素剤不要論を展開した後も、熊谷敦史(40)はヨウ素剤にこだわり続けた。長崎大の教授と助教という関係だが、熊谷には熊谷の考えがあった。

 原発はまだまだ不安定だ。急に飲ませる必要が出るかもしれない。そのときのために、どう渡し、どう飲ませるかを早急に決め、住民に徹底しておかねばならない――。

 19日午前。熊谷は福島県立医大で薬剤部長の白坂正良(60)、長崎大から福島入りした大津留晶(56)、吉田浩二(30)と話し合う。

 討議の結果、骨格を固めていた最寄り薬局利用案を踏襲することにした。(1)最寄りの薬局で安定ヨウ素剤を渡す(2)大人には錠剤、乳幼児には粉末を分包にして渡す(3)苦いので、乳幼児にはジュースに溶かして飲んでもらう。

 山下の了解が出れば、この案を県に提案する予定だった。県は十分な在庫を持っており、県には服用を指示する権限もある。このときがヨウ素剤が行き渡るチャンスだった。

 しかし同日、山下はこの案を却下した。理由は以下の通り。

 (1)原子力安全委員会のマニュアルから逸脱する(2)服用量を誤る危険もあるし、副作用が出た際に対応が困難(3)飲み物と混ぜた場合に効き目があるかどうかわからない――。

 日本甲状腺学会理事長をつとめる山下の意見は絶対だった。3月12日以降、医大で話し合われてきた配布案はこれで尻すぼみとなった。

 ところが……。

 数日後、山下は想像を超えた事実に驚いたと明かす。以下、ことし6月に山下から取材した内容だ。

 山下を驚かせたのは、11年3月23日に国が公開したSPEEDI(放射能拡散予測システム)の計算図だった。当時のヨウ素剤服用基準は、甲状腺の被曝(ひばく)線量が100ミリシーベルトになると予測されたとき。計算図では100ミリを超える地域が原発30キロ圏外にも大きく広がっていた。

 「ありゃー、と思いました」

 放射能汚染は山下の予想を大きく上回っていた。

 「日本の原発にはヨウ素とかを取り除くフィルターとかがきちんと付いているものだと思っていた。まさかこんなに広範囲に汚染されているとは思わなかった」

 山下には面会と電話で3回話を聞いた。一問一答の形で山下の記憶をたぐってみる。(麻田真衣)

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:22 聞く度に話変わった
2013年11月9日
 長崎大教授の山下俊一(61)は、1999年に起きたJCO臨界事故のあと原子力安全委員会で安定ヨウ素剤服用のマニュアルづくりを担った人物だ。

 その山下が、なぜ安定ヨウ素剤に否定的なのか。

 山下への取材は計3回。記憶があいまいなのか、話を聞くたびに内容が違っていた。

 今年6月のやりとり。

 ――福島県立医大でヨウ素剤服用は不要だと結論を出しました。

 「福島に入ったときは情報がなかったんです。情報といえば福島県立医大で測定していた空間線量のデータぐらいで……。3月23日にスピーディの結果を見て、ありゃーと」

 ――情報がないのになぜ不要と結論を出したのですか。

 「日本の原発はフィルターがついていると思っていた。放射性物質があんなに広範囲に広がっていると思わなかった」

 6月のこのとき、2011年3月18日に県立医大で行った講演の内容はよく分かっていなかった。当初、県立医大が「記録は存在しない」としていたからだ。7月に講演会の録画を入手し、改めて尋ねた。

 ――講演では「安定ヨウ素剤は信仰だ」とまで話しています。

 「チェルノブイリの場合は、その後に放射性物質を含んだ食品を大量に摂取した。つまり内部被曝(ひばく)の影響が大きい。日本は大丈夫だという意味です。それに原発から60キロ離れた県立医大では分けて考えていた。県立医大は空間線量が低くなっていたのでヨウ素剤を飲む必要がない」

 ――県立医大の職員が飲む必要がないという意味にはとれません。普通に聞けば、住民に飲ます必要はないと受け取ってしまいます。

 「言葉足らずで申し訳ない。でも実は当初、避難した住民は国の指示が出てヨウ素剤を飲んでいたと思っていた。マニュアルでは避難中に飲むことになっていましたから」

 ――服用させるべきかどうか、国から相談はなかったのですか?

 「なかったですね」

 ――相談があったら服用させるべきだと答えましたか?

 「そうですよ。避難するほどの事態であれば服用する。そのためのマニュアルですから」

 ――原発の状態は不安定でした。福島入り後、有事に備えて服用できる態勢を作ろうとは?

 「情報もなかったし、全く議論しませんでした」(麻田真衣)

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:23 消えたファクス
2013年11月10日
 長崎大の山下俊一(61)とともに安定ヨウ素剤の服用問題に大きな影響を与えたのが放射線医学総合研究所(放医研)の緊急被ばく医療研究センター長、明石真言(60)だ。

 明石から話を聞いたのはことし6月だった。明石はこういった。

 「いま思えば、飲ませればよかった」

 2011年3月14日、放医研は原子力安全委員会の定めた服用法から逸脱しないよう声明文を出した。国や県の指示がない状態で飲むな、ということだ。国、県は指示を出さなかったため、安定ヨウ素剤を飲んだのは三春町民などごく一部だけ。その三春町にしても、一時は「勝手に飲ませた」と批判された。

 その声明文について聞いた際の答えが「いま思えば」だった。

 「でも」と明石は釈明した。

 「あのころは自衛隊へのヨウ素剤服用指示や、傷病者の受け入れなど対応すべきことが多くて……」

 山下と明石。鍵を握る人物が、2人とも「飲ませるべきだった」と振り返る。

 なぜ服用に至らなかったのか。

 服用の判断を任された原子力安全委員会は、実は3月13日午前0時42分と午前10時半、経済産業省へこんなファクスを送っている。

 「体表面の汚染1万カウント以上でヨウ素剤を投与すべきだ」

 ところがなぜか、そのファクスが行方不明になったとされる。

 15日深夜には福島県庁に退いた国の現地対策本部にファクスが届く。内容は「20キロ圏内には入院患者等がいるのでヨウ素剤を服用させるように」。現地対策本部の医療班員だった放医研医師、立崎英夫(54)の記憶では送信元は経産省だった。

 立崎は驚いた。急いで、県にヨウ素剤服用を指示する文書をつくり始めた。服用の対象は「入院患者」から「住民」に広げた。

 16日朝。現地対策本部長から許可をとり、立崎は本部内にいた県職員に指示文書を手渡した。これで指示は行き渡ったと考えていた。

 だが、県はヨウ素剤を配布しなかった。理由は不鮮明なままだ。

 17日昼に立崎はいったん放医研に戻り、放医研に戻っていた医師の富永隆子(36)と交代した。

 18日か19日、富永は事前にヨウ素剤を配ることを県職員に提案した。職員は「それでいきましょう。必要分を市町村に段ボールで送ります」と手配を始めた。しかしなぜか、これも実現しなかった。

(プロメテウスの罠)医師、前線へ:24 測定機、あったのに
2013年11月12日
 長崎大から福島へ支援に入った医師、熊谷敦史(40)がいま最も悔やんでいるのは、原発事故直後に住民たちの甲状腺被曝(ひばく)量を十分測れなかったことだ。

 2011年3月17、18の両日、熊谷ら長崎大のチームは、福島県立医大病院内で甲状腺の測定を行った。17日午後は院内の保育所「すぎのこ園」で園児6人、職員4人を測定、18日午後には新生児集中治療室などの職員24人を測定した。

 国が初めて甲状腺測定を行ったのは24日のことだ。長崎大の測定は事故直後の貴重なデータとなった。

 高い数値は確認されなかったが、簡易な測定機を使ったので完璧ではない。詳細なデータを得るには「甲状腺モニター」が必要だった。

 熊谷は、福島第一原発から5キロの大熊町内に甲状腺モニターがあることをつかんでいた。

 3月下旬から4月にかけてのことだ。熊谷は自分と同じく甲状腺を測定すべきだと考えていた県立医大病院の放射線科医、宮崎真(44)と関係機関へ何度も電話をかけた。

 「急いで子どもたちの甲状腺を測定するべきではないですか」

 ヨウ素131の半減期は約8日。ヨウ素132と133は1日以下だ。ふたりとも必死だった。

 だが、甲状腺モニターの使用に協力する機関はなかった。県の職員には「文部科学省がやることだから」と一蹴された。別の県職員はこんなことも理由にあげた。

 「甲状腺モニターは重いので搬送に数人必要だが、大熊町は線量も高いので危ない」

 宮崎はこのとき一種の極限状態だった。原発事故当時に妻は双子を妊娠しており、8週目をむかえたばかり。郡山市で生まれ育ったが、放射能の影響が心配で初めて福島を離れようかとも思った。

 一度は同僚に「病院を辞める」と宣言もした。しかし、誰かがやらないといけないと思い直した。

 熊谷の記憶では4月終わり、県の職員から電話がかかってきた。

 「大熊の機械が更新期を迎えていたため、東京のメーカーに更新用の同じ機械が用意されていました」

 熊谷は憤った。東京にあったなら測定できたじゃないか!

 この件を経て宮崎はこう思うようになった。

 甲状腺の測定すらまともにできなかったこの国に、原発のような巨大システムを動かす能力があるのだろうか――。


(プロメテウスの罠)医師、前線へ:25 ベラルーシに驚いた
2013年11月13日
 2012年4月。長崎大の助教だった熊谷敦史(40)は福島県立医大に籍を移した。

 11年秋、長崎大の上司で、震災後に福島県立医大の副学長を兼務した山下俊一(61)から誘われたのだ。しかし即決はできなかった。担当していた難治性の甲状腺がん患者が気になっていた。

 一緒に患者を担当していた上司の大津留晶(56)は11年秋に福島県立医大に移籍しており、不安をあらわにする患者もいた。

 「先生は福島には行かないでください」。手術をしたことで声を出せなくなったある女性患者は、こう手紙で訴えてきた。

 迷う熊谷に大津留がいった。

 「被曝(ひばく)医療の医者がいま福島に行かなくてどうする」

 この言葉が背中を押した。

 熊谷は妻とともに福島に行くことを決めた。

 移籍後の12年5月、県立医大内に新設された災害医療総合学習センターの副センター長になった。

 現在は、医学部の学生や全国から集まる医療者に被曝医療や放射線の知識を講義している。住民の被曝の悩みに答える自治体の保健師などの相談にものる。

 ことし2月から3月にかけて、熊谷はベラルーシのゴメリ医科大学を訪れた。福島県立医大の学生がゴメリ医科大学で研修できるよう依頼するためだ。

 この訪問の最中、熊谷は衝撃を受けた。研究者からこんな話が出たのだ。

 「チェルノブイリ事故の影響で乳がんが増えている可能性がある」

 研究者が日々、被曝者と向き合う中での実感だった。

 ベラルーシは心疾患や血液異常、呼吸器の慢性疾患など、人体へのさまざまな影響を指摘するウクライナとは立場を異にしている。世界保健機関(WHO)などと同様に「放射線による健康影響として科学的に認められるのは、急性被曝を除いては甲状腺がんだけ」という立場をとってきた。

 そのベラルーシで、甲状腺がん以外のがんが増えているかもしれない? 研究者の血が騒いだ。

 データを見たわけではないので、県立医大への報告文書では言葉を慎重に選んだ。

 熊谷は疫学調査に必要な統計学などの勉強を始めた。実態を解明するためにも調査をしたい、と考えている。
2013.11.09 Sat l 福島甲状腺がん l コメント (0) トラックバック (0) l top

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