もうすぐ8・15終戦の日、でも歴史を忘れて戦争できる国い突っ走る日本
終戦間際に終戦をストップしようとする反乱があった。私自身知らなかったこと・・・
(映画の旅人:上)終戦の日の反乱を描いた「日本のいちばん長い日」〈1967年〉  
朝日新聞 2014年8月9日 より転載する。

■終戦間際に反乱した軍
 車の音もセミの鳴き声も聞こえない。ここが大都会の中心部だとは信じられない静けさだ。木立に囲まれて近衛歩兵第一連隊と第二連隊の記念碑が立つ。隊員の名を刻んだ碑の上を黒い蝶(チョウ)が、幽鬼のように舞った。

 皇居に隣接した東京都千代田区の北の丸公園。日本武道館の奥に、明治時代に建てられた赤れんがの2階建てがそびえる。東京国立近代美術館の工芸館だ。戦時中は天皇を守る近衛師団の司令部庁舎だった。

 終戦の日の1945年8月15日午前1時すぎ、ここで師団長が陸軍の畑中健二少佐らに殺された。2時、ニセの師団命令が作られた。天皇の玉音放送をやめさせ、戦争を続けようとする反乱だ。宮城(きゅうじょう)事件と呼ばれる。

 午前3時すぎ、近衛歩兵第二連隊は玉音放送の録音盤を奪おうと宮内省に突入したが、発見できなかった。第一連隊の小田敏生中隊長は「玉音放送を阻止せよ」との命令を受け、内幸町の放送会館を占拠した。近衛兵は天皇を守るどころか、天皇に逆らって暴走したのだ。
 不穏な動きを知った軍司令官により反乱は鎮圧に向かった。午前5時、「放送を援護せよ」と、逆の命令が第一連隊に下った。11時すぎ、畑中少佐は皇居前で自決する。終戦の放送ならばなお阻止しようと考えた小田中隊長を11時半、参謀長が抑えた。スタジオ入り口では将校が局員を軍刀で斬ろうとして取り押さえられた。正午の玉音放送は危うい中で流されたのだ。 

この史実を65年にまとめたのが当時、月刊誌「文芸春秋」の次長だった半藤一利さん(84)だ。「事実が何も知られていないとわかった。87人に聴き、半年かけて書いた」のは、35歳のときだ。題は連合軍のノルマンディー上陸作戦を描いた『史上最大の作戦』の原題『ザ・ロンゲスト・デー』からとった。

 当時の取材帳を見せてもらった。8月14日と15日の関係者の動きを、1時間ごとに大学ノートに1ページずつ細かい字で記してある。1ページに10~20項目。記入した文を消した上に矢印で新たな書き込みがあり、情報が入り乱れていたことがうかがえる。

 岡本喜八監督は映画の演出ノートの冒頭に「『日本のいちばん長い日』は新しい日本の歴史の一ページだ。いささかの曖昧模糊(あいまいもこ)も許さずに知りたい」と書いた。協力した半藤さんは「知るはずのないことまで細かく聞かれて、閉口した」と語る。

(映画の旅人:下)死ぬのは名もない兵士たち
 半藤一利さん(84)も『あの戦争と日本人』で「死ぬのはいつだって名もない兵士たち。近ごろ弱いものがどんなに苦しんでいても、上に立つものはその責任も問われない方向へと世の風潮が強まっている」と書いた。映画の最後に「戦死者200万、一般国民の死者100万」という数字が出る。半藤さんによると、戦死者の70%が広義の飢餓による死だ。

 8月15日に反乱軍が頼った阿南(あなみ)陸相は反乱への加担を拒み「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」を遺言し割腹した。陸相を演じた三船敏郎は映画のパンフレットに出演の感想を寄せた。「どのような理由があったにせよ驕(おご)れる軍部に踊らされ偉大なる無駄と罪悪を犯していたということ」

 半藤さんは諭す。「日本の軍隊は成り立ちからして天皇の軍隊であり民草(たみくさ)の軍隊ではない。官僚も天皇の官僚であって国民の官僚ではない。軍隊は解体されたが、天皇の官僚は残った。これでは信用しろったって無理です」

 8月に入って半藤さんは毎朝、ベッドに正座し、終戦の詔書の戦争犠牲者の下りを経文のように唱えて起きる。「日本人は戦争の悲惨さ、残酷さを知らなくなったとつくづく思う」とつぶやいた。


2014.08.10 Sun l 戦争と平和 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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