ジャーナリスト・重信メイさんのインタヴュー記事を読んだ。
「立場や時代によって歴史の見方は異なる。母たちのとった手法は間違っていたが、弱者の側に立つという考え方は間違っていなかった。マスコミが流すステレオタイプの情報をうのみにするのではなく、自分で考えるきっかけになってくれたらいい」と語るメイさんはとても魅力的なので転載させてもらう。
(逆風満帆)上 28年間、無国籍だった 2014年9月20日
(逆風満帆)中 「テロリストの娘」として 2014年9月27日
(逆風満帆)下 そして、再びレバノンへ…2014年10月4日

 「私は生まれてから28年間、国籍がありませんでした」「世界に存在しない人間だったのです」――。東京・新宿にある映画館。スクリーンで重信メイ(41)が語っていた。
重信メイさん

 この夏、1本の記録映画が話題になった。アイルランド人監督、シェーン・オサリバンの「革命の子どもたち」(配給・太秦)がそれだ。

 登場するのは1970年代、世界を揺るがせた極左組織の女性リーダー、ドイツ赤軍のウルリケ・マインホフ(獄中自殺)と日本赤軍の重信房子(68)=殺人未遂などの罪で服役中。暴力主義も辞さない当時の左翼運動の隆盛と実態を、それぞれの娘たちの証言を中心に解き明かそうとする野心的な作品である。 あらためて映画に出演した感想をメイに聞くと、こういった。「立場や時代によって歴史の見方は異なる。母たちのとった手法は間違っていたが、弱者の側に立つという考え方は間違っていなかった。マスコミが流すステレオタイプの情報をうのみにするのではなく、自分で考えるきっかけになってくれたらいい」

 日本赤軍の最高幹部だった母の房子は終戦の年、血盟団事件の流れをくむ右翼の父親の次女として生まれた。明治大学在学中、学費値上げ反対闘争に参加し活動家の道に入る。1971年、「世界革命」を目指してレバノンへ出国、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と連携する。

 メイは73年、房子とパレスチナ人戦士との間に生まれた。

 前年には岡本公三ら日本赤軍の3人のメンバーがイスラエル・テルアビブの空港で自動小銃を乱射、イスラエル警備隊と銃撃戦になり、26人の死者、70人以上の負傷者を出した。

 名前のメイは、この事件が起きた5月を指す英語のMayと「革命」の「命」からついたという。ちなみに父はすでに他界、一緒に暮らしたことはない。

 日本赤軍はその後もハイジャック事件や在外公館などへの襲撃を繰り返した。アラブ世界からは英雄視される一方で、イスラエルからは報復の対象とみなされる。日本赤軍の活動を支持する勢力やアラブ諸国の支援を受けて潜伏生活を送った。怪しい動きを察知すると引っ越し、各地を転々とする。その時々の状況で集団生活をしたり、ばらばらに住んだりした。難民キャンプで暮らした時期もあった。グループにはメイより年下の2人の子どももいた。

 だが、「いまも中東に和平は訪れていない。関係者が危険にさらされる可能性もある。いつどこで誰と暮らしたか、具体的なことはいえない」とメイは話す。

■「お母さんの名前はなに?」

 街ではアラブ人、家の中では日本人として暮らした。誰とどんなに親しくなっても、本当の自分を明かすことはできなかった。身分を偽り続けた。

 組織のリーダーだった房子は娘が巻き添えになることを心配し、学童期になると離れて暮らした。2人が一緒に過ごした期間は通算でも5年間くらいだったという。8歳の時、その母から自分たちは日本赤軍であると打ち明けられると、こう答えた。「だいぶ前から知ってたよ。知らないふりをしていたの」

 初めて母の実名を知ったのは高校生の時だったという。無意識のうちに「お母さんの本当の名前はなに?」と聞いていた。房子は一瞬、とまどいながらに正直に答えた。「シ・ゲ・ノ・ブ・フ・サ・コ」。メイは自著『秘密』にこう書いている。〈不思議な響きだった。フランスかアフリカの名前を言われたようで、まるでピンとこない名前だった〉

 元日本赤軍メンバーでメイと共同生活を送ったこともある映画監督、足立正生(75)はいう。「映画で語っていた以上にメイちゃんは過酷な環境にいた。大切な場面になると、本当の身分や家族のことがいえず、疎外感にまみれた」

 中学から高校にかけてメイはあるアラブの国にいた。水泳が得意で「国の強化選手にしたい」という話が持ち上がったが、公の場には出ることはできない。理由をつけて辞退した。

 日本赤軍にシンパシーを感じ、中東を訪れていた映画監督、故若松孝二は無国籍の彼女の将来を心配し、「俺が現地でつくった子どもということにして連れて帰ろう」といった。あるアラブの国家元首から「養女にしよう」という話もあったという。

★ しげのぶ・めい 1973年、レバノンで生まれる。ベイルートのアメリカン大学、同大学院に学ぶ。母・房子の逮捕にともない2001年、日本国籍を取得し帰国する。著書に『秘密』『「アラブの春」の正体』など。

(中)ジャーナリスト 重信メイ(中)

 東京・新宿で重信メイ(41)と鉄板焼きレストランに入った。「わあ」。鉄板から立ちのぼる炎を見て喜び、スマホを向けた。初老の調理師は「こっちから撮るといいよ」と協力的だった。が、撮影が終わり腰を落ち着けると、声を低めて聞いてきた。「純粋な日本人じゃないよね? ハーフ? どこの国との?」――。

 1990年代に入ると、中東情勢は大きく変化した。89年にベルリンの壁が崩れると、東欧の社会主義体制が次々に崩壊。91年に湾岸戦争が起き、反イスラエルのテロリストを支援していたソ連が消滅する。アラブとイスラエルの和平交渉が進展。欧米や日本政府の圧力もあり、レバノン政府の方針が転換する。97年、レバノンの治安当局は日本赤軍メンバーを逮捕、岡本公三を除く4人が日本に送還された。

 2000年11月、メイの母親で、国際指名手配されていた日本赤軍最高幹部の房子(68)が潜伏先の大阪府内で逮捕された。当時メイはレバノンの首都ベイルートの大学院で学んでいた。無国籍のため将来の展望が描けないでいた。

 テレビのニュースで4年ぶりに母を見た。恐れていたことがついに現実のものとなったという感じがした。一方、これで母がイスラエルの情報機関に捕まって虐待されたり、暗殺されたりすることがなくなったという安心感もある。「とても難しい気持ちでした……」

 房子は接見した弁護士に娘の存在を明かし、日本国籍取得の手続きをとってほしいと頼んだ。メイは、アラブでは英雄的存在の母たちが日本ではテロリストと呼ばれていることを知っていた。だが、帰国直前に応じた日本のテレビ局のインタビューではこういった。「母を尊敬しているし、誇りに思っている」

 国籍を取得したメイは東京の下町のアパートで、潜伏先で母が使っていた家財道具を引き取って暮らした。日本語学校に通い、裁判の傍聴に足を運んだ。房子は獄中で日本赤軍の解散を宣言。メイは予備校で英語を教えるなどして生計を立てる一方、ジャーナリストとして中東問題について発信を始めた。

■懲役20年と大腸がん

 28年間、素性を隠してきたメイが、自己をさらけだして生きる。それは誤解や偏見、差別との闘いでもあった。

 ある週刊誌はインタビュー記事とともにメイの写真を掲載、キャプションに「合法的にガンバルよ~」と書いた。銀行で口座を開こうとすると「テロリストの娘」という理由で断られた。9・11同時多発テロが起きると公安関係者の尾行がつく。講演会のパネリストにメイの名前を発見した自治体が、会場の提供を断ってきたこともある。

 神奈川県の小学校に呼ばれて出張授業を行ったときは、イスラエル大使館が「偏向した授業をした」などと抗議。地元の教育委員会は校長の処分を決めた。

 来日してからのつきあいがあるジャーナリストの上杉隆(46)は、「一見、多様性に寛容に見えるが排他的なのが日本人。彼女はこれまでもよく我慢している」という。アラビア語、フランス語、英語、日本語を駆使し、アラブを知りつくしているメイの視点や考え方、情報は日本のメディアが流す中東報道とは違った。

 彼女の能力を評価していた上杉は、メイと一緒にキャスターとして出演していた衛星放送「朝日ニュースター」の番組以外にも、レギュラー出演している民放各局に売り込んだという。

 「彼女の情報をもらったり、番組製作に協力させたりするのにテレビには出演させない。『なぜ?』って聞くと、『だってテロリストの娘だろ?』と。要するにクレームを怖がっている。政治や社会がレッテルを張るのはしかたがない。でもメディアが率先して多様性を否定し、レッテル張りをする。がくぜんとした」

 中東にいた頃、母と娘は別れる時はいつも、二度と会えないかもしれないと覚悟した。「どんなに離れていても思い出したい時は月を見てね。月はどこにいても同じように見えるから」と、房子はよくそういった。

 獄中の母とは触れあうことも抱き合うこともできないが、昔とは違って何年も会えないわけではない。会いたくなったら1カ月に2回、原則10分の「面会」という形で会うことができる。母と娘の間に穏やかな時間が流れた。

 だが、新たな局面が訪れる。09年、房子は大腸がんの手術を受ける。翌年、最高裁で懲役20年が確定した。母は刑務所の中。何もしてあげられない。メイは無力感にとらわれた。=敬称略(大嶋辰男)

(下) 小雨が降る中、重信メイ(41)は東京・八王子にある医療刑務所に向かった。

 2000年に逮捕され、懲役20年が確定した母、房子(69)はここにいる。がんは転移を重ね、3回、手術を受けた。面会を終えた頃、雨脚は強くなっていたが、メイの表情は明るかった。「お母さん、元気だった……」

 房子は逮捕後、『りんごの木の下であなたを産もうと決めた』を出版した。その中で新たな世界で生きていく娘にこうメッセージを送った。

 〈私の娘であることが、あなたにたくさんの困難をもたらすかもしれません。でも、あなたの個性で、日本の社会になじんでいってほしいと思います〉

 子どもの頃からメイは自分が日本人だと疑わなかった。国籍を得て01年に初めて帰国した時の心境を、自著『秘密』に〈長い間心に秘めてきた愛する人を求めるように、私は日本を求めていた〉と書いた。

 その彼女は12年、日本を去りレバノンに戻った。現在、二つの祖国を行き来する生活を送っている。

 「帰国して10年たった頃かな。このまま日本にいても同じことの繰り返し。自分の進む可能性はこれ以上変わらない、と思うようになったのは」

 日本で暮らすうちに、それまで感じなかったアラブ人のアイデンティティーを感じるようになった。幸い母の病状も小康状態を保っている。思い切って、環境を変える決断をしたという。

 日本でのメイはメディアや講演などで根気強く、日本赤軍の最高幹部だった母のことや中東情勢、アラブ社会について語った。母たちが活動した時代、世界に何が起きていたのか。欧米の思惑で中東はどう振り回されたのか。なぜ戦争やテロが終わらないのか。「アラブ対イスラエル」といった単純な図式では見えてこない現実を伝えてきたつもりだった。

 なにもアラブや中東について語るのは母を思ってのことだけではない。実際に自分は生まれたときから、その地で戦争や死と隣り合わせに生きてきた。いつも真っ先に子どもや弱い立場の人間が犠牲になるのを見て育ったという――。

 「自分の意見を押しつけるつもりはない。いろいろな考え方があるのが当然だから。ただ、経済力や軍事力など力のある側だけが『正義』であるかのようにふるまうのはフェアではありません」

 ■銃声が鳴り響く街で

 彼女にとって日本で過ごした11年間は何だったのか。

 一連の事件の影響で房子の実家は長い間、マスコミや社会からバッシングを受けた。中傷や嫌がらせも絶えない。そのためメイの祖母は病院の待合室で「重信さん」と呼ばれるだけで緊張した。

 そんな生活を何十年間と続けた重信家にとって、突然、現れた彼女の存在は「救いだった」という。

 メイはいつも親族の前では明るくふるまっている。だが、母方のおばはこう胸中を察する。「房子の娘ですから。私たち以上につらい経験をしていてもおかしくない。でも、彼女の口からネガティブな話題や人の悪口を聞いたことはない。私たちに嫌な思いをさせまいと気を使ってくれているんです」

 ジャーナリストの上杉隆(46)は昨年、ベイルートでメイに会った。

 会話中、町なかで突然、銃声が鳴った。彼女は動じる様子もなく、「いまのは500メートルくらいかな」と、すぐに発砲現場との距離を言い当てこう語った。「子どもの頃は毎日、こんな銃声を聞いていたわ……」

 それでも日本にいた時より生き生きして見えた、と上杉はこう語る。「重信房子はアラブでは英雄的存在。その娘である彼女のアラブ人脈は幅広い。日本のために活躍できる場はたくさんあると思うが、社会がそれを許さないだろう」

 いまもメイを取り上げるメディアには苦情が届く。日本赤軍と連合赤軍をいっしょくたにして非難されることもある。だが、彼女によると、少しずつ自分や母のことを理解してくれる人が増えたという。

 アラブと日本は昔、もっと近い存在だった。二つの血を引く自分はその懸け橋になるような仕事がしたい――将来の夢をそう描いているメイはこんな話もした。「子どもの頃、だだをこねると母にいわれたんです。『できないってなしね。考えたらきっとできるよ』って」

 そして、「日本に来てこんな変化もあった」と手のひらを見せた。

 「ほら。中東にいたときにはまったくなかった生命線が、日本に来てから伸びてきたんです」

 笑っていた。=敬称略(大嶋辰男)
2014.10.11 Sat l その他 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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