旧満州「大兵庫開拓団」の悲劇(その1) 終戦、298人が自決した
毎日新聞2017年11月5日 

 中国東北部にある黒竜江省隆安村。トウモロコシ畑に挟まれた道を進むと、土煙の向こうに小高い丘が現れた。先導する車から降りた村人が指し示すふもとを石田拓男さん(69)=兵庫県明石市=が見つめた。

 「おばあちゃん、おばさん、おじさん……。高橋村から来ましたよ。骨は持って帰られへんけどな」。異国の大地に眠る親族に語りかけ、線香を手向けた。6月29日のことだ。

 戦前、中国大陸に進出した日本は、国策として多くの入植者を旧満州(現中国東北部)などに送り込んだ。いわゆる満蒙開拓団である。

 兵庫県の旧高橋村(現豊岡市)も現在の黒竜江省隆安村へ「大兵庫開拓団」476人を送り出した。だが1945年8月17日、日本の敗戦を知って暴徒化した現地住民らに追われた開拓団の384人がこの丘から川に飛び込み、自決を図った。岸辺に流れ着いた人などを除き、298人が川底に沈んだ。

 石田家からは7人が開拓団に加わった。関東軍に召集された拓男さんの父義雄さんとその弟を除く5人が自決に加わり、拓男さんの叔母に当たる多美枝さん(88)だけが生き残った。

 しかし拓男さんはこの悲劇をずっと知らされてこなかった。2011年に義雄さんが92歳で亡くなる数年前、実家の書棚にあった元開拓団員の手記集を読み、初めて知ったという。「集団自決」「収容所」などの言葉と並び、所々に父の名があった。口を閉ざしてきた父に尋ねるのは気が引けた。ただ、高校を卒業し大阪の電線メーカーに就職した頃、父から言われたことがある。「お前はいつか中国に行くやろうな」

 旧高橋村には戦後、開拓団の人々を悼む碑が建てられ、現在も8月17日に慰霊式が行われている。碑には亡くなった石田家4人の名も刻まれている。昨夏初めて参列した拓男さんの疑問は膨らむばかりだった。

 なぜ父は話してくれなかったのだろう。なぜ「お前は中国に行く」と言い残したのだろう--。 <取材・文 田辺佑介>
旧満州「大兵庫開拓団」の悲劇(その2) 語られぬ集団自決より転載

◆旧満州 眠り続ける入植者
国に翻弄された命
 戦時中、兵庫県の旧高橋村(現豊岡市)から旧満州(現中国東北部)に入植した「大兵庫開拓団」が、終戦直後に川で集団自決を図り、298人が亡くなっていた--。その悲惨な歴史を私が知ったのは、兵庫県尼崎市で中国残留孤児向けの日本語教室を開いている宗景(むねかげ)正さん(70)を通じてだ。写真家でもある宗景さんは、夜間中学で日本語を学ぶ残留孤児を撮影したことを機に教室を始め、孤児たちが育った中国東北部の村や開拓団の跡地を撮り続けている。


殉難者之碑=浜本年弘撮影
 「300人が川に飛び込んだ豊岡の開拓団の跡地に寄ったら、当時を知る人がまだ生きとったんや」。宗景さんからそう聞かされたのは2015年夏。以来、旧高橋村に通って生存者の話を聞いたり、命日にある慰霊式を取材したりしてきた。不思議に思ったことがある。取材には応じてくれる生存者や遺族たちが、お互いに集団自決のことを話す場面をほとんど見ないのだ。この集落は悲劇を伝えたいのか、忘れようとしているのか。


 そんな時、宗景さんが、昨夏の慰霊式で知り合ったという石田拓男さん(69)、そのいとこの吉田俊夫さん(58)と大兵庫開拓団の跡地を訪ねると聞いた。私は疑問が解けるかもしれないと思い、同行することにした。

 旧高橋村は京都府に隣接し、府県境の山中を源流とする支流が谷間をぬうように流れ、円山川として日本海に注ぐ。住民たちは戦時中、わずかな平地の水田や棚田でコメを作り、炭焼きのほか、冬場は山を越えて灘で杜氏(とうじ)をするなどして収入を得ていた。当時の資料には1人当たりの年間所得が206円とあり、国民平均の450円と比べ「本村民の所得は半分にしか及ばない」と記されている。


89歳になる王東国さん(右から2人目)から集団自決当時の話を聞く石田拓男さん(左端)と吉田俊夫さん(左から2人目)=中国・黒竜江省隆安村で6月28日
 国は「二十カ年百万戸」を入植させるとうたった満蒙開拓事業を1937年から本格化させていた。食糧増産と、日本のかいらい政権だった旧満州国の防衛強化のためだった。兵庫県から入植戸数の目標が割り当てられた高橋村も開拓団を派遣する。43年9月、補助金などが交付される「皇国標準農村」に指定されたのと同じ日、村は見返りとして移民を送り出す決議をした。目標は200世帯。だが、寒くて不慣れな地に行きたがる人は少ない。誰が行くかで紛糾した。

 当時、石田拓男さんは生まれていないが、祖母や父ら一家7人が開拓団へ参加した。参加は息子を軍隊に出していない世帯から求められ、8人きょうだいの1人が海軍に志願していた石田家は必ずしも応じる義務がなかった。しかし参加に応じたのは100世帯ほどしかなく、辞退者も出ていた。拓男さんの父義雄さん(11年死去)は農学校出身で、当時は北京に渡って技術指導に当たっていたため、参加を強く求められた。開拓団の募集係は義雄さんの妻孝子さんの実家でもあった。「義雄さんは、自分のせいで家族が満州に行かされたと思っていたのかもしれない」。拓男さんの叔母で、開拓団に参加した多美枝さん(88)は振り返る。多美枝さんの母ゆかさんは「行きたくないけれど、だれもうちの満州行きに反対してくれん」と漏らしていたという。

 高橋村の103戸476人が、満州の浜江省蘭西県北安村(現・黒竜江省隆安村)に入ったのは44年3月。省都ハルビンから約70キロ北の寒村だったが、現地の住民と良好な関係を築き、北京にいた義雄さんも途中から合流して平穏に過ごしていた。しかし戦局が悪化すると、開拓団を守るはずの関東軍は東南アジアの南方に転戦。義雄さんら開拓団の男性たちも次々と召集された。

 ソ連が対日参戦し、取り残された女性や子供たちは8月14日未明、開拓団本部から別の町に向かうよう命じられる。その日のうちに到着したが、頼みの関東軍はいない。さらにハルビンへ逃れようとしたが、日本の降伏を知って暴徒化した現地住民らに襲われ途中で断念。昼夜歩き続けて16日深夜、元の村に戻ったが、夜が明けると村は暴徒に囲まれていた。

 打つ手はなく、開拓団の班長会議で「無残に殺されるよりは」と集団自決が決まった。武器も毒薬もなく、村はずれの丘から、長雨で増水した川に入水することになった。

 なぜ死なないといけないの。16歳だった多美枝さんには理解できなかった。でも大人たちが決めた以上、口にはできない。生き残ることがないよう、幼い子から先に死なせる指示があった。多美枝さんの末弟、輝雄さんは当時8歳。「お母ちゃんは絶対できひん。あんたがやってくれ」。ゆかさんに言われ、多美枝さんは目をつぶって両手で弟の首を絞めた。「ごめんね。お姉ちゃんもすぐ逝くからね」。わんぱくな弟だったが、ゆかさんや多美枝さんから「お父ちゃん、おじいちゃんとこ行くんやで」と聞かされたせいか、暴れもせずに息を引き取った。

 続いてゆかさん(当時51歳)、妹の道枝さん(当時10歳)、義雄さんの妻孝子さん(当時22歳)、多美枝さんの4人が腰ひもで互いの体を縛り付け、歩いて川の中に入っていった。孝子さんは妊娠していたという。

 水の中に沈むと、多美枝さんはあまりの苦しさにもがいた。いつの間にかひもが切れ、自分だけ浮き上がった。周りを見ると、暴徒たちは遺体から金品や衣服を奪っていたが、生存者を襲うことはなかった。当時は何も考えられなかったが、時がたつにつれ、思うようになった。(暴徒たちは)物が欲しかっただけだったんだ。死ななくてもよかった--。

 軍に召集されていた義雄さんと弟は、敗戦の混乱の中からかろうじて引き揚げてきた。多美枝さんも他の生存者らとハルビンの収容所で1年を過ごし、46年10月に帰郷。ただ、知人に管理を任せていたはずの石田家の家屋や畑は人手に渡っていた。

 私たちが開拓団の跡地に向かったのは今年6月下旬。ハルビンから車でロシア国境へ続く国道を走る。「いよいよ来たんやな」。吉田さんが窓の外を見つめた。

 目的地に着くと、日用品を扱う小さな商店の壁に「隆安村」と看板が掲げられていた。日中国交回復後の82年と87年、高橋村から旧開拓団員らが現地に足を運んでおり、村からの訪問者は30年ぶりという。双方の高齢化で交流は途絶えがちだったが、近年は宗景さんが毎年のように訪れている。自宅で迎えてくれた王東国さん(89)は開拓団がいたころの村長の息子で、30年前は村長として訪問団を迎えた。

 「日本人には、冬にはまきを貸して、代わりに馬や車を借りたりして仲良く暮らしていた。家や畑を明け渡したが、その分、お金ももらっていたからもめごともなかった」。王さんは言った。入植地では現地住民から半強制的に安く土地を買い取り、反発されるケースが目立ったが、比較的良好な関係を保てた場合もあった。王さんは終戦時、開拓団員が早朝に食事をし、家財をまとめているのを見た。王さんの父は親しい日本人から「必ず帰るから家を見守っていてください」と頼まれたが、3日後、集団自決があったという話が広まった。王さんは怖くて現場に行けなかったが、1年ほど後、友人とその丘の下に向かうと、沼地の泥の上にいくつもの骨が見えたという。

 「骨は、骨はどうなりましたか」。拓男さんが問うと、王さんは「命令もなく勝手に埋めることはできなかった。今も土の下に残っているだろう」と答え、こう続けた。「捕まったら恥と思う日本人の気持ちは知っていたが、なぜみんなで死ななければならないのか、理解できない。助け合って暮らしてきたのに」

 翌日、村人の案内で、集団自決の現場を訪ねた。30年前は沼地だったが、現在はトウモロコシ畑になっていた。「無残や。ぞっとするわ。下に骨があるんやもん。誰が悪いんや」。つぶやいた拓男さんに吉田さんが応じた。「当時の国やろう。農民を盾にしたんや。この光景を目に焼きつけんと」

誰かを責めたくない

慰霊式に参列した(左から)石田拓男さん、多美枝さん、吉田俊夫さん=兵庫県豊岡市で8月17日
 私たちが開拓団の跡地を訪ねてから1カ月半後の8月17日。今年も旧高橋村で慰霊式があった。

 生存者や遺族ら約30人が「殉難者之碑」に花を手向けた後、近くの集会所で拓男さんが宗景さんと訪中の報告をした。現地の写真を見せ「みなさんの苦労を伝えていきたい」と述べてから、義雄さんが自分に言い残した「お前はいつか中国に行くやろうな」という言葉を紹介し、こう締めくくった。

 「『自分で歩いて確かめて、見て来いよ。戦争がこういう悲劇を生む。絶対に戦争をしてはいけないよ』と言いたかったんじゃないか」

 今年の慰霊式も、生存者同士が当時を話し合う場面は見られなかった。多美枝さんが言った。「死んだ輝雄と同世代で、無事戻った人に『命令されたはずなのに、あなたはなぜ』と聞きたくなってしまう。でも聞けない」。引き揚げる参列者を見送りながら宗景さんがつぶやく。「ずっと村の人たちを撮ってきたけれど、当事者だからこそ、語り継いでいくって難しいことなんやなあ……」

 殉難者之碑は53年に有志によって建てられ、自決した人も含め、故郷の地を再び踏めなかった346人の名が刻まれている。高さ3メートルの碑を見上げると、300人近くが命を絶った事実の重さ、他国の土地を奪って村人たちを半強制的に入植させ、そして見捨てた国策の罪深さを思わずにはいられない。

 10月下旬。拓男さんは初めて、義雄さんが書き残した約20冊の日記を開いてみた。今までは父の内面に土足で踏み込むようで見る気持ちになれなかったが、どうしても心の内を知りたくなった。

 妊娠していた妻孝子さんを集団自決で亡くした義雄さんは帰国後、義子さん(93)と再婚。拓男さんら3人の子をもうけた。拓男さんによると、石田家は8月のお盆に墓参りをしていたが、義雄さんだけは別の墓にも手を合わせていた。17日には正装し、1人でどこかに出かけて行った。「当時は何でか分からんかった。今になって、孝子さんの家のお墓や慰霊式だったんやなって」。日記にも毎年8月17日に慰霊式の短い記述があり、孝子さんの兄弟の名前を挙げて<全員で墓参り>などと書いている年もあった。

 帰国後の義雄さんは紡績会社で羊毛技師として勤務し、退職後は村に戻り酪農を営んだ。幸せな日々だったと言える。国家に翻弄(ほんろう)された戦中の影を、戦後の家族たちには残すまいと心に誓っていたのかもしれない。拓男さんは言う。「あの丘に行って感じたのは、集団自決がなければ、父は孝子さんとおなかの子と、別の戦後があったということ。つまり僕は生まれなかった。口を閉ざし続けたのは、僕をそんな不安な気持ちにさせたくなかったからだろう」

 多美枝さんによると、集団自決で家族を失った村民が、その後に新しい家族を得たケースはほかにもあるという。

 村は市町村合併により但東(たんとう)町、そして豊岡市と移り変わった。だが、悲劇は今なお遺族の胸にのしかかる。多美枝さんは時折、輝雄さんの幼顔を目に浮かべる。「どうして、あの子まで」。でも誰かを問い詰めたり、責めたりしたくはない。それぞれの家族にどんな事情があったか、その家族しか分からないとも思うからだ。

 忘れてはならない歴史もあれば、そっとしまっておきたい記憶もある。拓男さんが父の日記を再び閉じると、この悲劇を追い続けた私の取材も、一つの区切りを迎えた気がした。
2017.11.06 Mon l 未分類 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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