湯川秀樹 戦中の原爆研究に言及 京大が日記公開
毎日新聞2017年12月21日
 日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹(1907~81年)が、終戦期の45年に書いた日記を21日、京都大基礎物理学研究所・湯川記念館史料室が公開した。湯川が生涯を通じて公的な発言を控えていた原爆研究「F研究」に言及。広島原爆投下や時局に関する記述もあり、専門家は「第一級の歴史的史料」としている。
 湯川は49年に中間子論でノーベル物理学賞を受賞した。戦時中、旧海軍が京都帝国大(現京都大)で進めたF研究を理論的に支えたことが他の史料などで知られるが、本人の記述はほとんど見つかっていなかった。

京都新聞 2017.11.24
湯川博士 悔悟の原点か敗戦基の食糧難に苦しみ、屋か後をさまよう失意の日本に希望と勇気を与えた、京都大学湯川秀樹博士の日本人初のノーベル賞受賞。没後36年を経て、戦争中の日記の内容が23日、明らかになった。
戦後、科学の平和利用と核廃絶を社会に訴えた湯川博士だが、生涯黙して語ることのなかった自らの原爆研究との関わりや、戦争中の姿が日記から読み取れる。科学者の倫理とは何かを考えた原点と悔悟が垣間見える。
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湯川原爆研究
湯川秀樹 戦中の原爆研究に言及 京大が日記公開
毎日新聞2017年12月21日

 日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹(1907~81年)が、終戦期の45年に書いた日記を21日、京都大基礎物理学研究所・湯川記念館史料室が公開した。湯川が生涯を通じて公的な発言を控えていた原爆研究「F研究」に言及。広島原爆投下や時局に関する記述もあり、専門家は「第一級の歴史的史料」としている。
 湯川は49年に中間子論でノーベル物理学賞を受賞した。戦時中、旧海軍が京都帝国大(現京都大)で進めたF研究を理論的に支えたことが他の史料などで知られるが、本人の記述はほとんど見つかっていなかった。

 湯川の没後、遺族が38~48年の「研究室日誌」「研究室日記」計15冊を史料室へ寄贈。史料室は分析を順次進め、45年1~12月に書かれたB5判のノート3冊の内容を今回発表した。

 F研究は44年ごろに始まったとされるが、45年前半に会議を重ねていた様子がうかがえる。

 最初に「F研究」の文字が見えるのは45年2月3日で、研究の責任者だった原子核物理学者・荒勝文策教授らと相談したと記述。6月23日には、荒勝教授ら研究者11人と学内で第1回打ち合わせをしている。7月21日には「(大津市の)琵琶湖ホテルに行く」とある。F研究は明記されていないが、京都帝国大と旧海軍の合同会議が同ホテルであった日で、湯川の参加が裏付けられた。

 広島原爆投下の翌日の8月7日、新聞社から「原子爆弾」の解説を求められたが断ったと記述。一方、同9日には新聞を引いて「威力は熱線が全体で数粁(キロ)に及ぶといわれている。落下傘で吊(つる)し、地上数百米(メートル)にて爆発」と書いた。

 湯川は戦争の行方に強い関心を寄せている。45年6月に大阪に空襲があった際に「(京都で)日も赤く濁る」と記し、硫黄島や沖縄戦の甚大な被害にも触れている。研究資料を避難させるため荷造りを進めるなど身辺が緊迫していた様子も読み取れる。

 山崎正勝・東京工業大名誉教授(科学史)は「湯川が発言を控えた『空白期』だけに、研究の一端がうかがえる第一級の史料。戦時の軍事研究について史料保全、公開を進める機会にもすべきだ」としている。【野口由紀】

 【ことば】戦時の原爆研究

 太平洋戦争中、旧日本軍は極秘に原爆開発の研究を物理学者らに託した。海軍が京都帝国大の荒勝文策教授に依頼したのが通称「F研究」で、「fission(核分裂)」の頭文字を取って命名された。同じ時期、陸軍は理化学研究所の仁科芳雄博士に通称「ニ号研究」を委託した。ただ、いずれも内実は原爆製造にはほど遠かったとされる。


湯川秀樹、原爆研究記す 終戦前後の日記公開
日経 2017/12/21
 日本初のノーベル賞受賞者の湯川秀樹(1907~81年)が終戦前後に書き残した日記を京都大が21日、初公開した。原爆研究に関わった記述がある一方、広島や長崎の原爆被害も詳細に記しており、専門家は、戦後平和運動に携わった湯川の歩みを知る記録として注目している。
 湯川は原爆研究への関与を公的な場では認めていなかったが、45年6月に原爆開発についての会議に出席していたことが今回、本人の自筆記録で初めて裏付けられた。

 日記は78年、京大理学部の戸棚の整理中に風呂敷包みから発見され、湯川の没後、遺族が大学に寄贈したノート15冊の一部。「研究室日記(日誌)」と題され、今回、45年分の3冊が公開された。

 このうち、6月23日には「F研究 第1回打ち合わせ会、物理会議室にて」と記され、京都帝大(現京大)の同僚荒勝文策氏ら研究者計12人の名前があった。研究内容への言及はなかった。

 F研究は海軍の依頼で荒勝氏を中心に進めていた原爆研究。湯川の関与は他の研究者の残した資料で分かっているが、原料不足などから基礎的な研究にとどまり、製造段階には程遠かったとされる。

 日記ではF研究に関して、他にも2月、海軍の施設で会合があったことや、5月に戦時研究に決定したとの通知があったことが記載されている。

 一方、広島への原爆投下翌日の8月7日には、「(新聞社から)広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」としている。原爆投下に関する感想はないが、戦後の9月6日には、「死者 広島7万名 長崎2万名」などと原爆の死傷者数や建物被害数を記している。

 9月15日には「米士官2名教室へ来たので直ちに面会」と記述。戦時中の研究について聴取されたことがうかがえる。また、マッカーサー司令部に提出する研究に関する報告書の作成に忙しい日々を送っていたり(10月3日)、海外の研究者と原爆について論じたり(11月22日)していた。

 日記を分析した小沼通二慶応大名誉教授は「日記に思いは書かれていないが、国が正しいと考えていた湯川の価値観が戦後になって変わったことが同じ頃に雑誌に書いた記事から読み取れる。45年に平和運動への道ができたのだと思う」と話している。日記は京大湯川記念館史料室のホームページで公開する。〔共同〕
2018.01.27 Sat l 原爆・原発と科学者の社会的責任 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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