最近ある人から先の大戦に対する意見はどうかと尋ねられた。

①私は、「日本の軍部のみが悪かった」とは思えません。
開戦前には、欧米列国がアジアの殆どを植民地としていました。
米国と日本は、残されたシナ大陸の支配を巡って戦争をしたのだと思います。
②ルーズベルトは「不戦」を公約として、大統領に当選しました。
彼は米国民を騙して、戦争に参入して、数十万人の米兵を死なせました。
③スターリンは日ソ中立条約を破って、満州や日本領土を不法占領しました。
ロシアは現在でも、戦争で入手した日本領土を返還しようとしません。
④私は、「東条首相も誤りを犯した」と思います。
⑤「ハル・ノート」は実質的に、米国の日本への戦争布告状でした。
日本は「ハル・ノート」を受け入れるべきだったのでしょうか?
⑥少なくとも、日本がナチスの初戦勝利に惑わされず、欧州の戦争には不介入の立場を取っていれば、「ハル・ノート」まで至る事態に追い込まれなかったかも知れません。


1.先の大戦というと、中国侵攻以前の大日本帝国による韓国併合(台湾も植民地であった)を考える必要がある。
日本の朝鮮半島植民地支配~解放・南北分断 にまとめた。

2.日本の中国全土への侵攻についての世界情勢 満州事変~日中戦争
1933年の日本の国際連盟脱退
国際連盟創立以来の常任理事国として重きを占めてきた日本は、1931年の満州事変で、中国によって国際連盟に提訴された。国際連盟からはリットン調査団が派遣され、その報告書は日本の軍事行動を正当と認めず、また満州国が傀儡国家であることを事実上認めるものであった。連盟総会は 33年2月 24日 42対1 (日本) ,棄権1 (タイ) で同報告書を採択した。これに対して、松岡洋右全権以下の日本代表団は総会から退場し,国際連盟を脱退した。以後日本の外交は国際社会から孤立し、ドイツ=イタリアとの枢軸結成へと直進していくことになった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小学館 日本大百科全書

最近日本人が知らない太平洋戦争の大嘘 藤井厳喜氏
太平洋戦争は、日本が始めた戦争じゃない。あのアメリカの『狂人・ルーズベルト』が、日米戦争を起こさせた。
などハルノートのことが言われているが、何か胡散臭い感じがして、これを読んでも自分の太平洋戦争の評価は変わらない気がして、実はよくしらないので調べてみた。

3.1.ハル・ノート Hull Note
1941年 11月 26日アメリカ国務長官 C.ハルが日本の野村,来栖両大使に手交した提案。太平洋戦争開戦直前に行われた日米交渉でアメリカ側から提示されたもの。
すべての国家の領土保全と主権の不可侵を原則として,日本の一切の陸海空軍兵力を中国、インドシナから撤収すること,チョンチン (重慶) の国民政府以外の中国におけるいかなる政府,政権も支持しないこと,日本,アメリカ,イギリス,オランダ,中国,ソ連,タイの7ヵ国の多辺的不可侵条約の締結,実質的に日独伊三国同盟を廃棄することなどを要求している。日本政府はこれを対日最後通牒とみなし,同 12月1日の御前会議はこれを受諾しがたいという結論を下し,アメリカ,イギリス,オランダに対する開戦を決定した。
3.2.ハルノートの内容をわかりやすく教えて下さい
あと日本がなぜハルノートをみて海戦を決意したのかも教えてください
あとルーズベルトが真珠湾への奇襲を知っていたというのは本当ですか?
私が調べたところアメリカの何代目かの大統領が、ルーズベルトは真珠湾を知っていたという発言をしたとみたのですがこれは真実ですか?

ベストアンサーに選ばれた回答  2015/8/12
まず、ハルノートで開戦なんか決意してません。時系列でみてください。
11月5日の御前会議ですでに「対米戦を決意」しています。
軍は作戦の準備期間が必要です。いきなり今日決意、明日開戦とはいきません。
日本機動部隊が真珠湾に向け択捉を出撃するのは11月26日です。
ハルノートが日本に届くのは翌日27日です。前日に出撃済みなんですよ。
ハルノートの中身は、日本の侵略中止、具体的には中国、満州からの撤退などですが、そんなことは交渉でずっと言われてきたことです。それに撤退期限が書かれているわけでもありません。そんなレベルです。
要するにハルノートなんて、アメリカの最低限譲れない事項をまとめたにすぎません。
ネット上では、さも最後通牒だとか、暴動が起きるだの、日本を植民地化する内容だのといった情報が氾濫してますね。なんでだろう?ただし、出撃したから即開戦なわけではありません。出撃させつつ交渉は継続してました。
ルーズベルトが真珠湾攻撃を知っていたか?いろいろ憶測は飛び交っていますが、日本がどこかを襲ってくるということは想定していたでしょう。アメリカも戦争準備して航空機を各地に輸送し、各地の警戒レベルを上げてましたから。真珠湾もそのうちの一候補くらいでしかなかったのでは。

3.3.
太平洋戦争の原因をわかりやすく解説。対日石油禁輸からハルノートに至るまでの経緯とは?

太平洋戦争開戦の大きな原因となったアメリカ政府から日本政府への要求が書かれた「ハルノート」。現代では最後通牒とも呼ばれていますが、アメリカがハルノートを出すまでに至る流れを紹介します。

日本は満州事変(1931-1933) に続き日中戦争を起こして中国大陸へ勢力圏を広げる軍事行動を続けていました。昭和16年(1941年)7月23日に日本はフランス領インドシナの南部(南部仏印)に軍を進駐させて占領します。

この事件を受けて、アメリカは8月1日に対日石油輸出禁止を実行します。
当時の日本にとって、アメリカから石油を輸入できないのは、どれほど大変なのか?
昭和15年(1940年)、日本が輸入する石油の77%がアメリカから輸入したものでした。前年の昭和14年(1939年)では緊急輸入もあって90%にも達します。つまり、石油のほとんどをアメリカに依存していたのが当時の日本なのです。
結局、昭和17年には石油の備蓄が尽きると言う危機的状況に陥ります。

ABCD対日包囲網。いよいよ追い詰められる。
第2次世界大戦の開始前,アメリカ America,イギリス Britain,中国 China,オランダ (蘭印) Dutch East Indiesが提携して日本の膨張政策に対抗した事態をさし,4国の頭文字をとってこう呼ばれた。 ABCD包囲網ともいう。
アメリカ以外で石油を輸入できる所として、オランダ領インドネシア(蘭印)です。蘭印は日本の石油輸出増量の要求を受け入れたものの、南部仏印への日本軍進駐をきっかけに日本との協定を破棄します。
アメリカとオランダからの石油が止められ中国と戦争を続け、ドイツと敵対するイギリス、この4ヶ国に囲まれ石油禁輸など経済封鎖を受ける状況に日本は追い込まれていました。

首相の東条英機は戦争回避を模索。
危機的な状況の日本。政府や軍部はどうこの状況を乗り越えようとしたのでしょうか?
代わって総理に就任したのが近衛内閣で陸軍大臣をしていた東条英機でした。
東条英機には陸軍を抑えてアメリカと和平に向かう事が望まれていました。

東条内閣と軍部は日独伊三国同盟で日本は自動参戦しない、中国大陸から撤兵などを盛り込んだ「甲案」、仏印からの撤兵に触れる乙案、二つの譲歩案でアメリカとの交渉に望みを繋げたのです。
東郷外務大臣はと言う譲歩案を強硬に押し通します。東条内閣はもしも、この譲歩案が通らなければ、軍部からの圧力によって開戦に踏み切る気運が強まります。すでに日本は絶体絶命の状況に陥っていました。

最後通牒?『ハルノート』が突きつけられる。
しかし、アメリカは日本が提出した2つの譲歩案で交渉をしようとしません。
11月26日にアメリカ政府のハル国務長官(日本で言う外務大臣)から日本政府への要求書が提出されます。それが「ハルノート」です。内容は日米間の新たな経済関係作りが多いのですが、仏印と中国大陸からの全面撤退と言う日本の軍部が受け入れられない内容がありました。
12月1日にアメリカとの外交交渉が失敗したと判断して、日本政府と大本営はアメリカとの開戦を決定します。

■なぜ最後通牒と呼ばれるのか?
「ハルノート」が最後通牒と評価されるのは、軍部(特に陸軍)を全く説得できない内容だったからです。
また、石油備蓄もなく、アメリカと軍部を時間をかけて説得できないのも「ハルノート」を最後通牒と受け取ってしまう背景がありました。内外に余裕のない日本政府の苦しさが「ハルノート」を最後通牒と受け取って開戦へと踏み切らせたと考えるのが自然です。

満州事変は、1931年9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破した事件(柳条湖事件)に端を発し、関東軍による満州(中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日の塘沽協定成立で満州領有を既成事実化した。満州侵略戦争。
「満蒙は日本の生命線」であると強調して政治的経済的進出をはかり,柳条湖事件を契機に軍事行動を起し,ほとんど無抵抗の中国軍を追って 31年中にほぼ満州全域を占領,32年3月傀儡 国家「満州国」をつくった。

日中戦争 日中戦争 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 より要旨抜粋
1937年7月から 1945年8月まで日本と中国の間で起こった戦争。 1941年 12月からは日本が対アメリカ,イギリスに宣戦布告をして始めた太平洋戦争に含まれるため,一般には日中戦争は 1937年から 1941年までの期間をさす見解がとられている。
1937年7月7日,北京 郊外の盧溝橋 で演習中の日本軍とこの地に駐屯していた中国軍との間に発砲事件 (→盧溝橋事件 ) が起こり,これを機に日本軍は本格的に華北への軍事作戦を始めた(北支事変)。
その後戦線は中国全土にも広がり,宣戦布告なき戦争状態に突入した。蒋介石は全国総動員令を発令。華北の中国共産党軍を国民政府軍に編入した。(支那事変)
日中戦争は各地の要域に侵攻する日本軍とそれに抗する中国軍との全面戦争になり,1937年 11月に東京に大本営が設置されてからは日本軍の優勢が目立ち,南京攻略作戦(1937年 12月4日-13日)では非戦闘員や一般市民の大量虐殺を行なった (→南京大虐殺 ) 。こうしたなか,蒋介石政府が日本に降伏しないのは,アメリカやイギリスが支援を続けているからと批判が噴出し,1941年 12月ついに日本は真珠湾攻撃に踏み切り太平洋戦争を開始した。その後の日中戦争は太平洋戦争のなかに組み込まれることになりる。 1945年8月 15日の日本敗戦によって,太平洋戦争のなかの日中戦争も終結することになった。

中国の勝利
中国は勝利したが、1000万の生命を奪われ、500億ドルもの物的損害を被った(沈鈞儒(しんきんじゅ)「関於戦争罪犯的検挙和懲罰」1951年9月)、といわれる。約4万もの中国人が労働力不足を補うために強制的に日本に連行された。台湾では、日本語使用の強要、姓名の日本式化(改姓名)など皇民化政策が進められ、何万という人々が「大東亜戦争」に日本兵として動員された。「満州国」でも、「五族協和・王道楽土」の掛け声の下で、中国人に対する民族的抑圧と差別が行われた。関東軍「七三一」石井特殊部隊による生体実験などはその代表的な一例であった。

朝鮮半島の植民地支配
1910年「韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」ことなどを規定した「日韓併合条約」に基づき大韓帝国を併合し、1945年の降伏まで、朝鮮半島を35年にわたって植民地として支配した。
この間、日本は漢城を京城(現在のソウル)と改称して朝鮮総督府を置き、現役の陸軍大将を総督として植民地支配を行った。朝鮮に対する皇民化政策を推進し、日本語教育の徹底、創氏改名や国内の労働力を補うための朝鮮人強制連行や慰安婦の徴発が行われた。1944年からは朝鮮においても日本軍への徴兵制が施行された。民間人の死者40万人。
この併合は国際的には一応認められていたが、外国の天皇の臣民になること、日本語教育、自分の名前も変更すること(創氏改名)の強制などの支配は国民にとっては耐え難いことであっただろう。

参考 世界史の窓 世界史用語集 http://www.y-history.net/appendix/appendix-list.html#wh1505-u

2018.02.24 Sat l 歴史認識・外交 l コメント (0) トラックバック (0) l top

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