FC2ブログ
子規と漱石、吟行の道 松山市 杖にすがって「最後の帰省」
より転載 2018.6.9 朝日新聞
子規は帰路、広島、大阪に立ち寄り、29日、奈良で史上最も有名な一句をものす。
《柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺》 の子規、 この句はどんな風に詠まれたのか・・・

 杖をついて、ではない。杖にすがるようにして、若い男がゆっくりと愛媛・道後温泉駅に降り立った。動きが緩慢なのは、結核で体が衰えているためだ。

 ヘルメットをかぶり、ネルの着流し。痩せた腰に巻いた白縮緬(ちりめん)の兵児帯(へこおび)が今にもずり落ちそうだ。仲間の男が連れ添い、二人で宿屋がひしめく通りを抜け、道後温泉本館に入る。前年に建て替わったばかりの三層楼の望楼で一句。

《柿の木にとりまかれたる温泉哉(いでゆかな)》

 男は松山城下に生まれた正岡子規。新聞「日本」の記者で、俳句革新の先導者として俳壇で知られる存在になっていた。連れは夏目漱石。この春から愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語教師を務めていた。二人の満年齢はともに、明治の年数と同じだ。
 続いて、北側へ坂を300メートルほど上り、鷺谷(さぎたに)の大禅寺の墓に詣でる。最後は急な階段だ。上り切ると、視界が一気に開ける。また一句。

《稲の穂に温泉(ゆ)の町低し二百軒》

 7年前に亡くなった曽祖母の墓を探す。曽祖母は母の代わりに男と妹を育ててくれた恩人だ。男は坂と階段で息が切れ、仲間に探してもらった。墓が増え過ぎたのか木の墓標が朽ちたのか、ついに見つけられなかった。

《花芒(すすき)墓いづれとも見定めず》

 明治28(1895)年10月6日、快晴の日曜日だった。漱石が愚陀仏庵(ぐだぶつあん)と名付けた下宿に、子規も起居していた。いつになく調子がよく、休みの漱石とともに句を詠みつつ歩く吟行に出たのだ。

     *

 道後温泉への往復は、8月に開通した軽便鉄道に乗った。鷺谷から一遍上人の生誕地である宝厳(ほうごん)寺などを巡り、帰路、漱石の誘いで、愚陀仏庵の近くにあった新栄座で照葉(てりは)狂言を見た。能狂言に踊りや俗謡を交え、おはやしを加えた演芸だ。女役者が芸達者だと感嘆して一句。

《男郎花(おとこえし)は男にばけし女哉》

 こんな吟行を愚陀仏庵にいた52日間に5回繰り返し、子規は「散策集」にまとめた。故郷でのんびりしているように見えるが、そうではない。深い傷心の日々だった。

 この年の春、記者として日清戦争に従軍した。結核の子規の健康を案じ周囲はいさめたが、振り切った。本人も覚悟の上。藩主拝領の刀を持って形見の写真を撮った。

《行かば我筆の花散る処まで》

 だが到着するや戦争は終わり、勇猛な戦闘の記事を書く間もなかった。

 空しく帰国の途上、船上で大量に血を吐く。神戸に上陸する時は歩けないほど衰弱し、そのまま入院。一時は東京から母八重が駆けつけるほど危険な状態だった。3カ月療養してやっと回復した。

 大量の喀血(かっけつ)は6年ぶり。短命は自覚していたが、結核という刃がのど元まで迫っていることを思い知らされた。

 母と妹も東京の自宅に同居していたので、松山に家はない。病が小康を得れば東京に戻るのが自然だ。だが、松山へ帰省した。なぜか。

 ■畏友と交わり文学語り合う

 子規が療養中に叔父に送った漢詩「正岡行」にカギがあると、松山市立子規記念博物館の竹田美喜(みき)館長はいう。

 生活は貧しく多病で妻はなく、母を悲しませている。先祖に合わせる顔がない、と詩は続き「ただ期す、青史に長く姓の正岡を記さんことを」で終わる。「青史は文学史。死を思い、文学史に名が残るほどの偉大な事業を成し遂げたいと願う。そのために最も的確で厳しいアドバイスをくれるのは、大学時代からの畏(い)友で近代文学に通じた漱石しかいないと考えたのです」

 「世に故郷程(ほど)こひしきはあらじ」と書いた子規は「最後の帰省」と覚悟していた。曽祖母のほか肉親らの墓参を済ませ、友人に次々に会った。

 漱石も会いたがった。神戸で療養中、「松山に来ないか」「俳句を教えて欲しい」という手紙も出していた。松山子規会の今村威(たけし)さん(84)は「それまでの下宿愛松亭は旅館でもあったので、結核の子規は居づらかろうと漱石は思いやり、町家の離れ(愚陀仏庵)に転居したという話が松山には残っています」と話す。

 8月25日に松山に着き、27日から愚陀仏庵に仮寓(かぐう)する。

《桔梗活(ききょうい)けてしばらく仮の書斎哉》

 待っていたのは漱石だけではない。松山の俳句同人松風(しょうふう)会の面々が教えを乞いに次々にやってくる。同い年の友人で地元・海南新聞の記者、柳原極堂も同人で、子規に添削を頼んだ。極堂は9月20日、初回の吟行に同行している。

 松風会は、俳句革新を掲げる子規の「日本派」の初めての地方結社。子規はうれしくてならない。連日、題を決めて多数の人が句を作り互選する運座をした。句会を開き、時に吟行もした。無理を重ね、朝から鼻血を出すありさま。子規は「逆上」と呼んだ。

《逆上の人朝がほに遊ぶべし》

     *

 肝心の漱石との文学論議も進んだようだ。極堂はふすまごしに、二人が「互いに東京に出て、大いに日本文学を興そうではないか」と話すのを聞いたと証言している。

 子規は東京に戻った直後から、自らの俳論の集大成となる「俳諧大要」を新聞日本と海南新聞に連載した。原稿は松山滞在中に書きためていた。冒頭で「俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり」と断言、宗匠を中心にした知的な言葉遊びと思われていた俳句の位置づけを高めた。

 竹田館長は「この書き方に漱石の影響が強く表れている」という。子規の文章は修飾が多く、結論は最後に記されがち。「先に結論を持ってくるのは、英文学を修め、論理を大切にした漱石の持論。俳諧大要の章立ても漱石がアドバイスしたのではないか」

 子規は従軍前に「日本」紙上の「芭蕉雑談(ぞうだん)」で、芭蕉を偶像化し崇拝するだけの旧派の俳壇を激しく攻撃。「俳諧大要」に続き「俳句問答」で旧派の有名な宗匠を名指しで批判し、さらに「俳人蕪村」で与謝蕪村を再評価し芭蕉への対立軸を鮮明にする。愛媛大学の青木亮人(まこと)准教授は「俳壇の99%は依然旧派という中で子規は孤軍奮闘。松山滞在の翌年3月に激痛を伴う脊椎(せきつい)カリエスと診断され、歩行も難しくなる。自力で歩き、漱石らとふるさとを吟行できた愚陀仏庵の日々は、後から振り返ると人生最後の骨休めのひとときだった」という。

 なぜ孤立を恐れず、あきれるほど激しい批判を続けたのか。残された時間が少ないという自覚のほかに「明治維新で賊軍とされた松山藩の特殊性がある」と指摘するのは、松山子規会「松山子規事典」の編集委員長を務めた平岡英(まさる)さん(83)。「賊軍藩出身者が政官界で立身出世できないのは、身にしみていた。それなら文学で日本一になってやるという気概にあふれていた」

 子規は10月19日、松山を発つ。ふるさとの見納めだ。12日の漱石の送別の句。

《見つつ行け旅に病むとも秋の不二(ふじ)》

 子規はこう返した。

《行く我にとどまる汝(なれ)に秋二つ》

 子規は帰路、広島、大阪に立ち寄り、29日、奈良で史上最も有名な一句をものす。

《柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺》

 31日帰京。癒やしの時は終わった。子規は残り7年の人生を東京で燃やし尽くす。

 (文・畑川剛毅 写真・上田幸一)
2018.06.11 Mon l その他 l コメント (0) トラックバック (0) l top

コメント

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://natureflow1.blog.fc2.com/tb.php/581-a93bab68
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)